コベルコ科研・技術ノート
こべるにくす
Vol.34
No.62
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# こべるにくす
収容所の少年が見出した「原理」
20世紀の科学史には、政治の嵐によって運命を変えられた研究者が何人もいます。第一原理計算のもととなった「DFT理論」を考案し、化学の革命を起こした人物、ウォルター・コーンもその一人です。
ウォルターは1923年、当時のオーストリアの首都だったウィーンに生まれました。家庭はユダヤ系の中産階級で、父は画材店を営んでいました。少年ウォルターは特別な天才児というわけではなかったようですが、秩序だった思考を好む子どもだったそうです。彼は両親と穏やかに暮らしていましたが、15歳のときに人生が大きく暗転します。1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを自国へと併合したのです。
ユダヤ人だったコーン一家はナチスによる迫害の対象となり、店は没収され、生活は崩壊しました。両親は息子だけでも助けようと英国へ逃がすことを決め、ウォルターを「子ども亡命列車」と呼ばれる救出計画によってイギリスへと渡航させます。ウィーンの駅で息子を見送った両親は、後に収容所で命を落とすこととなりました。
イギリスへ逃げたことでウォルターの命は助かりましたが、戦争はまた別の悲劇をもたらします。1940年に第二次世界大戦が始まると、ドイツ語を話す若者だった彼は「敵国人」と見なされ、収容所に送られることになったのです。ウォルターはまずイギリスの収容所、ついでカナダの収容所へと船で移送されることになりました。親から引き離され、敵国人と断罪され、たった一人で収容所に入れられる17歳の少年のことを想像してみてください。普通なら絶望する状況ですが、人生には想像がつかないことが起こるもので、この収容所生活が彼の後の人生を導くことになりました。
収容所には、ウォルターと同様にウィーンなどから亡命してきた大学教授や研究者が何人もおり、彼らは暇を持て余す若者たちに、数学や物理を教え始めていたのです。その中にはフリッツ・ロートベルガーという位相数学・集合論の分野で世界的な実績を持つ数学者もいました。ウォルターはロートベルガーの授業について「内容は難しく、ほとんど理解できなかった」と回想していますが、ここで本格的な抽象数学の世界に触れたことが、後に理論物理学の世界に身を投じるきっかけとなりました。1942年、収容所から解放されたウォルターは、カナダの大学に進学し、そこから本格的に物理学の研究に身を投じました。
1950年代から60年代にかけて、物理学の大きなテーマの一つは「固体の電子の振る舞いをどう計算するか」でした。化学反応とは「電子の状態の変化」の集積です。その電子の動きを求めるには、波動関数を用いれば電子一つずつに関しては計算できますが、原子が何百、何千と集まった物質ではその電子同士が複雑に相互作用し、計算量が莫大に増えて、実際に計算を行うのは不可能でした。当時の多くの物理学者は、この問題を「原理的には解けるが、現実には扱えない」と考えていたのです。
しかしコーンは次のように考えました。「広場に1000人の生徒がいて、みんなが走り回っている」とします。1000人全員が「今どこにいて、どれくらい速く動いているか」を1人ずつ全部記録するのは非常に大変ですが、「広場の前は混んでいて後ろは空いている」といった混み具合の地図(密度)を見れば「この辺は人がぶつかりやすい」とわかります。ウォルターは電子の動きもそのように「密度」のみを指標とすることで、計算が何千倍、何万倍も簡単になると考えたのです。ウォルターが生み出した「密度汎関数理論(DFT)」は現在、半導体や電池、触媒の開発はじめ化学分野で必須の基本理論となっています。
1998年にノーベル化学賞を受賞したウォルターは、手記の中でこう述べています。
「収容所で木こりとして働いて得た1日20セントの大金を一生懸命貯めて、ハーディの『純粋数学』とスレーターの『化学物理学』を購入することができた。これらの本は、今も私の本棚にある」。戦争、亡命、収容所と過酷な人生を送りながら、学問の追求を決して諦めず化学に革命を起こしたウォルター・コーンがもしいなかったら――きっと私たちの生活は、今とずいぶん違ったものになっていたことでしょう。
